今となってはとても懐かしい気がするこどもの日。

某ネットゲームでキッズ達と遊びながら
ちまきを食べるのがここ近年の私の5月5日。

家に子どもなどいなくても気にしない!ちまきが私を呼ぶのです。

しかし、なぜこどもの日には「ちまき」など食べるのでしょうか
子どもが餅を喉に詰まらせたらどうすんだ?

ということで、ちまきの由来を調べてきましたよ。
ぜひぜひ、ちまき片手に読んでみてください。

ちまきも喉を通らなくなりそうな、悲しい物語がそこにはありました。

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始まりはひとりの政治家から

ちまきのルーツをたどるには、今から2300年ほど前の中国にまで遡らなければなりません。
三国志よりも、始皇帝よりも、もっと昔の戦国時代。

当時(っていうか、いつもだけど)中国では複数の国が戦に明け暮れていまして、その中の一国「楚」の物語。

この楚の国に「屈原(くつげん)」という一人の政治家がおりました。

彼は正義感が強く、人情にも熱い立派な政治家でした。
彼は王様の側近で、国のための政治を行い、民衆からも慕われていました。
そして才能ある詩人でもありました。

しかしながら何時の時代でも悪徳政治家みたいなのも跋扈するものです。

国や民衆のことなどよりも私利私欲が優先の連中からしたら、
才能があり国を思う屈原のような国士は目障りな存在。

彼らは王様に度々入れ知恵をして、屈原を政権から遠ざけていきます。
結局、王は屈原よりも奸臣の言葉を優先させた挙句、敵の手に捕らわれ、
屈原は遠方に左遷されてしまいます。

そして楚の首都が敵の手に落ちたのを知った屈原は、
国の将来に絶望して汨羅江(べきらこう)に入水自殺してしまいます
ちまき

民衆たちがとった行動とは

屈原が入水したと聞いた民衆たち、彼を助けようと先を争って船を出しました。

が、さすがに間に合うはずもありません。

民衆達は「このまま屈原の亡骸が魚の餌になってしまうのは耐えられない」ということで、
船の上でタイコを音を出し、川に米を投げ入れて魚を驚かせて退散させようとしたとのことです。

屈原は本当に民衆に慕われていたんだなあ・・・とジンワリと来ると共に、
民衆の狼狽っぷりがよく現れているエピソードです。

この件をきっかけに、屈原の命日である5月5日になると、
屈原への供養としてもち米を川に流すようになりました

が、川には悪い竜が住んでいると考えられていて、
お供え物が屈原に辿り着く前に食べられてしまうという心配が出てきました。
そこで、竜が苦手な笹の葉で包んで流すようになり、中国全土に広がっていきました。
尖っててチクチクする葉っぱが苦手なドラゴンなんですね。

これがちまき誕生の物語です。

やがて三国志の時代、魏の国によってこの風習は「端午の節句」という宮中行事として定着したのでした。

端午の節句が日本に伝わったのはかなり後、奈良時代のことです。

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こどもの日に柏餅を食べる話もある?

日本ではその後、厄除けの行事として端午の節句は続いていきました。

が、江戸時代になり、ちまきのポジションを脅かすライバルが現れます。

そう、「柏餅」です。

柏の葉って、新しい葉っぱが生えるまで、古い葉っぱが落ちないとのことです。
その特徴はやがて

「子どもが生まれるまで親は死なない」
  ↓
「子孫繁栄」

という思いが込められることになり、とても縁起の良い葉っぱと考えられるようになります。

端午の節句に食べるお餅は「ちまき」のはずだったのですが、
この縁起の良さのおかげで柏餅がその座に取って代わっていったたようです。

しかし関西では歴史と伝統を重んじて、今でも柏餅よりもちまきを食べる習慣が続いています


これがこどもの日にちまきを食べる由来でした。

私は関西人なので柏餅よりもちまきの方が馴染みがあるのですが、
次回からこどもの日には、
国を思いながら死んでいった屈原さんに思いを馳せながらちまきを頂きたいと思います。

しかし供養のためとはいえ大量のちまきを届けられた屈原さん、天国で太ってなければよいのですが・・・。

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