私も子どものころ、5月5日が近づくと我が家でも大きなこいのぼりを立てていました。
鯉に触ろうと、窓から身を乗り出し大目玉を食らったのも今となっては良き思ひ出。

でも、そもそも何故こいのぼりを立てるのでしょう?
鯉ではなくカメとかだったら、私も怒られずにすんだかもしれないのに(´・ω・`)
きっとまた興味深い歴史が含まれているに違いありません。

今回はこいのぼりの由来について簡単に分かりやすくたどっていこうと思います。

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鯉の滝登り

こいのぼりの由来を知るには、先に「鯉の滝登り」について知っておくと話がスムーズです。

鯉が滝を下から上に登っていくアレですね。
力強く滝登りをしている鯉の絵など、良く見かけると思います。

が、実際の鯉は滝を登ることなどはせず、流れの遅い場所にいることが多いそうです。
泳ぐのも別に速いわけじゃないそうな(´・ω・`)

実は「鯉の滝登り」には別の意味があって、中国のとある故事に由来します。
その話によると「滝を登りきった鯉は登竜門をくぐり、龍になる」と伝えられていました。

「登龍門」という言葉もこの話から来ています。

「龍になる」ということは、「立身出世」の意味がこめられているということで、
日本でも江戸時代の頃から子どもの立身出世を祈願して「鯉の滝登り」が描かれ続けてきました。

しかし確かに滝を登るのはキツそうですねえ・・・(´・ω・`)

と、予備知識を仕入れたところで、こいのぼりの話にいきましょう。

端午の節句のお祝い

こいのぼりといえば、端午の節句に飾るものですね。

端午の節句が中国から日本に伝わったのが奈良時代なのですが、
こいのぼりは最初から飾られていたわけではありません。

↓端午の節句に関してはコチラが詳しいです
こどもの日!ちまきか柏餅、なぜ二通りのお餅があるの?

こいのぼり登場前の端午の節句のお祝い

端午の節句が伝わった当初は、病気・災厄を祓う厄除けの行事として行われていました。
宮廷では軒によもぎや菖蒲(しょうぶ)を挿したりしていました。

ちなみに端午というのは5月の最初の午(うま)の日という意味なのですが、
結局5月5日に固定されました。

鎌倉時代になると、端午の節句は
菖蒲と尚武(武道・武器を重んじること)をかけるという意味を持つようになり、
武家の間で重要視されるようになっていきます。

元々は厄祓いの祈願としての行事だったのが、
時代に合わせて戦へのご利益を期待する行事に変わっていったということですね。

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江戸時代にのぼりを立てる風習ができます

そして江戸時代になると、「こどもの日」の意味合いに近づいてきます。

このころから将軍に男の子が生まれると、
お城の中に家紋のついたのぼりを立ててお祝いするようになっていきます。

その風習は武家にも広がり、武家でも男の子が生まれると、
のぼりを立ててお祝いするようになっていきます。

戦勝祈願から男の子の誕生と成長をお祝いする行事に変化していったのですね。

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こいのぼりの誕生は庶民から

将軍や武家がのぼりを立てて男の子の誕生を祝うこの風習は、
やがて庶民にも広がります。

ここで先ほどの「鯉の滝登り」が登場します。
先ほどの故事の通り、「鯉の滝登り」には立身出世の意味がこめられています。

庶民たちは我が子の立身出世の願いを込めて、家紋ではなく「鯉」を掲げました。

屋根より高く、高く・・・立派になれよ。と。

これがこいのぼりの始まりです。


こうして江戸時代に始まったこいのぼりの風習。

我が子の立身出世を願う親心は、何百年経っても変わるはずもなく、
現在まで続いています。

こいのぼりにそういう両親の思いがこもっていたとは、子供時代の私はつゆ知らずに喜んでいるだけでした。

知ってしまった今となっては親の思いに答えないといけないな~と思い直す次第であります(`・ω・´)

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